アカマツ (めまつ)            まつ科
2011年4月24日

  昭和30年頃までは村の周りの里山はアカマツの林でした。昭和30年に矢矧橋ができたときの写真を見ると、北山は全部アカマツの林でした。晩春の午後子供たちを連れて、アカマツ林にピクニックに行きました。バスケットにお菓子や飲み物を詰めて、ササの中に点々と咲いているササユリを見たり、けだるい声でなくハルセミを聞いたり、その頃は今とは違う時間が流れていたようです。秋にはアカマツ林でキノコが採れました。時にはマツタケなど採れ、それが普通の里山の風景でした。

 マツの仲間は大昔から私たちの周りに有ったのでしょうか?ここで信州大学の只木良也先生の(森と人間の文化史)を少し使わせてもらいます。

 日本に自生するマツ属はアカマツ(33変種)クロマツ(16変種)アイグロマツ、リュウキュウマツ以上は2葉、ヒメコマツ、(9変種)ゴヨウマツ、ハイマツ、(3変種)チョウセンゴヨウ、ハッコウダゴヨウ、アマミゴヨウの10種類が記載されています (上原敬二「樹木大図説」有明書房)

 日本に自生するマツの仲間は2葉と5葉ですが、外国のマツには2葉、3葉、5葉のものが普通でまれに1葉、4,7,8,9葉のものもあるそうです。でも日本を代表するアカマツ、クロマツは2葉ですから昔から松葉は2葉というのが通り相場です。そして、日本の文化にマツは密接な関係を持っています。能舞台に「老松」「若松」が飾られ、お正月には「門松」を立てます。めでたい木には松竹梅です。安藤広重の「東海道五十三次」の版画には殆んど場面にマツが登場しています。日本三景は皆マツが主役です。
 また生活の中でもマツは重要な役割を与えられています。建築材料、家具、器具の製造に欠かせないし、何よりも大切なのが燃料でした。家庭の燃料は言うに及ばず、製鉄、製塩、焼き物には欠かすことのできないものでした。

 ではマツは大昔から日本にあったのでしょうか。アカマツはもともと日当たりのよい痩せ地で育つことのできる種類です。痩せた山の尾根筋など他の木が生きてゆけないところでも生きてゆけます。泉北丘陵に住宅団地が建設されたとき其処にあった古代の陶器の窯跡を調査したところ、初めの頃は照葉樹が燃料に使われていたが、次第にアカマツの木炭の割合が増え7世紀後半になると殆んどアカマツが燃料として使われていたそうです。

 度重なる収奪にも耐えてゆけるマツはどんどん生育範囲を広げ、日本中どこでも普通に見かけるマツ林が出来上がったのです。そのマツに受難の時代が来ました。マツくい虫の被害です。最初に記載されたのは明治38年長崎県でその後九州地方で拡大し、昭和10年代に山陽地方で多発、戦後間もなく、九州から千葉県まで大発生し、アメリカの指導で被害は一時下火になったが昭和30年代後半に再び被害が拡大し、このあたりのアカマツは殆んど全滅状態になりました。

 昭和43年農林省林業試験場九州支場の徳重陽山博士が(マツノザイセンチュウ)を見つけようやくその線虫がマツを枯らすことが判りました。しかし昭和30年代後半にはプロパンガスの普及でマツ林からの収奪が行われなくなり土地の肥沃化と照葉樹林への遷移が進み、マツは痩せた山の尾根筋へ後退することになりました。
 アカマツ・クロマツともにこの季節に新梢を伸ばしその先に2〜3この雌花をつけ、雄花はその根元に数十個の雄花をつけます。




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