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トップページ >地域の紹介>内部の史跡・遺跡

内部の史跡・遺跡

 以下は次の資料を参考にしました。
   内部地区文化財・史跡のしおり(内部地区連合自治会・内部地区地域社会つくり推進委員会編)
   四日市散策マップ 東海道編(四日市観光協会)
   中山寺の歴史(昭和63年松谷慧昭編)
   内部郷土史研究会作成資料

史跡

杖衝坂  しせきつえつきざか




 「古事記」によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が景行天皇の41年(111年)東国遠征から倭の国への帰り途、病のため腰の剣を杖について登られたので、この坂を「杖衝坂」と名付けたという。この坂のところで「吾が足三重の勾りなして甚く疲れたり」といわれ、その地を三重と名付けたという。三重県の県名の由来ともなった。
 東海道の中では、箱根、鈴鹿峠に次ぐ難所の一つ。また、杖衝坂の途中には、松尾芭蕉の句碑がある。



芭蕉句碑



 『歩行ならば杖つき坂を落馬かな』

 貞享四年(1687年)江戸から関西に向かった芭蕉が馬に乗って杖衝坂にさしかかったが、坂が急なため馬の鞍とも落馬したことを詠ん季語のない有名な句である。
 宝暦六年(1756年)村田鵤州が坂の中ほどにこの句碑を建てたが、明治の初期坂ノ下の屋敷の庭園に移されたがその後所有者の厚志により再びもとの地に移設された。




血塚社

 杖衝坂を登りきったところにある。鳥居の奥にある血塚の祠は日本武尊の血で染まった石を集めて葬ったと伝えられている。








采女城跡 うねめじょうあと


 内部川と足見川が合流する内部川左岸の泊丘陵南端、采女町字北山にある。伝承によれば、文治年中(1180年代)、伊勢平氏の後藤兵衛基清がここに城を築いた。以来、15代采女正の時、織田信長の臣滝川一益の侵略にあい永禄11年(1568年)に滅ぼされたという。
 城跡は標高50〜70メートルの複雑な丘陵地形の尾根筋を利用してつくられ、東西200m、南北250mに及び、中央の本丸とおぼしき最大の郭には深い井戸が完全に残っている。采女城跡はその規模の大きいこと、遺構の保存状態がよいことで県下に一千余りある城跡の中でも第一級の戦国時代の山城であるといわれている。

真慧上人北小松中山(なかやま)の旧跡


 真宗高田派の中興上人と仰がれている真慧上人は、野州の本寺(現在 も栃木県芳賀郡二宮町高田にある)から、寺基を伊勢の国一身田に移 されるまでの間、この地に七堂伽藍を建てて、北勢地方の民衆を教化 された。この辺一帯を「中山」(なかやま)と言い、歯骨堂(しこと)(納骨 堂)風呂屋の谷(浴場)、塔頭、坊舎、家中屋敷などが地名として残 っている。南小松の中山寺はこの地名に由来する。

 この地は古くから醍醐天皇勅願所で海徳山光宅寺という古刹があり、本尊は石仏の薬師如来で「お薬師さん」として尊崇されてきた。その西部の丘陵地はお茶山と呼ばれ、眼下に内部川の清流を眺 める景勝の地あった。 この東方(小松神社裏)に月見亭がありました。毎年九月十五夜には 月見の宴を催されたことから、中山寺の山号月見山の由来となってる。
 昭和 四十九年の集中豪雨で崩れたため、防災上、土取り工事が行なわれ、 その跡は消失してしまyっているが、旧跡の古い図面では、当時の境内は南西六十五間、南北三十五間ばか りとあり、総面積二二七五坪と記録されている。
旧跡地は「真慧上人御旧跡」と記した碑だけで、今は畑になっており、また西方には古墳群がいくつか残っている。

神社・寺院

延喜式内 加富神社 えんぎしきないかふじんじゃ



 波木町西の丘陵地にある。
成務天皇の38年(168年)創立と伝えられる。当時、日の宮と称し位置は明らかでなはない。天智天皇の時代(667年頃に)に今の地に移され、俗に火の宮ともいった。もと采女六ケ村の総社で三重郡六座の一つである。

 加富、または火富と書くが、安岡親毅著の五鈴遺響には加止美とよむべきであると書かれている。


延喜式内 小古曽神社 えんぎしきないおごそじんじゃ




 小古曽二丁目旧東海道沿いにある。
 由来は遠く平安の昔、醍醐天皇の御代、延喜5年(905年)式内神社として神名帳に記載されている。
 伊勢の国には253の大社・中社・小社があり、そのうちの小社として選ばれた1100余年の歴史を有する式内神社である。
祭神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)天照大日霎尊(あまてらすだいにちなむちのみこと)布刀玉命(ふとたまのみこと)ほか数神をお祀りしている。
 当神社の行事として、その年の作物の豊凶を占う粥試し(かゆだめし)神事など数多くの伝統行事が伝えられている。



采女八幡社 うねめはちまんしや



 鎌倉時代の堀河二年(1188年)に創建されたといわれる。明治42年(1909年)に明治政府により合祀令が発令され、波木町の加冨神社に合祀され、大正十五年(1926年)に分祀され社殿が造営された。
 昭和27年に、国の管理から離れ宗教法人となり、地元の氏神として祭られている。祭神は、品陀和気命、日本武尊命、菅原道眞等多くの命か祭られている。
(右の写真は境内から見下ろす国道1号線)



小松神社    


(記事作成中)


寺院


米田山 大蓮寺 よねだぞんだいれんじ


 
 小古曽二丁目旧東海道沿いにある。
 小古曽町の南面(内部川の南の五百山辺り)に土岐代康氏が居城し、その跡に八幡宮を建立し、祈願所を米田山珠賽法鎮寺と号し、その後、当寺の末弟、真蓮阿闍梨が、当町の北面に一宇を建立し、米田山大蓮寺と号し、長禄年間(1457〜1460年)に、専修寺第十世真慧(しんね)上人の影響により、僧俗共に帰依し、真言宗より浄土真宗に転派し、寛正元年(1460年)に、真宗高田派専修寺米田山大蓮寺として清順上人により開基したと言われている。 それと時を同じくして、真慧上人より恵心僧都(えしんそうず)の阿弥陀尊像一幅を賜り、現在の地に建立されたとある。
 その後、文化十年十二月(1813年)に再建され、本尊は第九世順察上人の記によると、快慶作の阿弥陀如来立像(御丈一尺五寸)が安置されている。





米田山願誓寺 よねださんがんせいじ



 当山の縁起は、米田山珠寳法鎮寺に始まり、同寺の末弟、法柳が現在の地に建立し、米田山願誓寺と号し、真言宗であったが、専修寺第十世真慧上人により浄土真宗に転派したところまでは当町内の米田山大蓮寺と同様である。

 本寺第十世義道(本寺では、中興上人と呼ばれている)の時、火災にあい焼失したが、同人は建築、彫刻にも長じた技量を有した人物で、現在の本堂と庫裡が、寛政四年(1792年)に、師の手により再興されたと言われている。
本尊である阿弥陀仏は、寺伝では聖徳太子の御作とあるが、お顔の部分は後世の補修が伺えるが、頸から下部の部分は古いお姿をとどめている。
 また、山門前の義道師の刻んだ石碑にある黄金仏は、御丈五センチばかりの小仏で、師が感得した二仏と合わせて、三尊仏として厨子に祀られている。


慈現山観音寺 じげんさんかんのんじ



 禅宗の一派の黄檗宗の末寺であるが、歴史的に明らかなのは、江戸時代に黄檗宗の寺院となってからである。
 戦国時代、信長の寺院破壊の時に焼失し、その後、元文二年(1737年)の上梁札(棟礼)よると、四日市浜町の森本長八忠雅の喜捨(きやく)により仏殿、庫裡、方丈などが村人の協力により建立されたことが知られる。
 また、村人たちによって兵火から守られた「本尊・千手観音像」は、文化三年(1806年)の再建とみられる本堂内に今も安置され、頭体幹部は十一世紀頃の制作であろうと思われている。
 山門は、四脚門方式で、屋根の両端に異国風の「マカラ」を上げる点などは、宇治市にある黄檗山万福寺の諸堂にみられる黄檗宗特有のもので、棟札より寛政十二年(1800年)の二月と判明し、細部絵様は本堂のものと一致する。



米田山成満寺 よねださんじょうまんじ



 永承二年(1047年)真言宗長生寺として創建されたと伝えられ、永正年間(1504〜21年)に後藤采女正藤勝が後藤家の菩提寺として自分の法名(采女公殿四品釋成満大居士)に因み米田山成満寺と改称し専修寺第十世真慧上人の弟子の専察を迎えて、真宗高田派に転派して再建された。
 しかし、采女城とともに織田信長の兵火にあい焼失、三代日の折に再建されたと伝えられております。
 本町内には、別に延久二年(1070年)真微が本寺北西の字古市場の地に開基した真観寺があり、本尊は大日如来で、同寺は、その後、杖衝坂の中腹東側の高台に移され、その地で永く祀られていたが、明治二年(1869年)に、本尊は当寺に安置され祀られていた。しかし、昭和五十一年の火災により焼失、そのお姿を見ることができません。昭和五十七年再建。



月見山 中山寺 がっけんざん ちゆうざんじ



 高田本山専修寺第十世真慧上人開基の旧跡寺院である。寛正2年(1461年)小松中山(今の北小松町)に建立されたが、法難にあって炎上し、弟子蓮蔵坊慶林が南小松に移転再建し、現在に至っている。

 創建当時の本尊阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作、経蔵は享保15年(1730年)の建立である。真慧上人の御遺物として、山門に掲げる「月見中山」の扁額や上人の身の危険を告げて動き出したと伝えられる「歩行石」がある。




龍華山 了信寺 りゆうげざん りょうしんじ



 波木町内にある。
 もと観音堂良信寺といい、引法大師の創設と伝えられ、大師の作である如意輪観音を本尊としていた。

釆 女城主後藤釆女正の祈念所であったが、織田信長の兵火にあい仏殿・坊舎のすべてを消失した。延宝7年(1679年)多田道貞が再興し、僧幸陀(こうたく)が開山した。この時から高田派に改宗した。



開徳山 上品寺 かいとくぞん じょうぼんじ



 貝家町内にある。

 仁明帝の嘉祥2年(849年)に、天台宗の僧澄順(ちょうじゅん)が、現在の貝家町の西の山に、成保寺と名付けて建立した。
 寛正5年(1464年)真宗高田派専修寺真慧上人に帰依して浄土真宗となった。元和7年(1621年)に、僧慶養が現在の地に移し、この頃から上品寺と呼ばれるようになった。釈迦堂(1736年・建立)の釈迦牟尼仏は奈良時代の僧行基の作として伝えられている。(四日市市指定文化財)

文化財

釈迦如来坐像
種別 市指定有形文化財(彫刻)
所有者 上品寺(貝家町)
法量 像高98.5cm
材質・形状 木造 漆箔 彫眼
製作年代 平安時代前期
指定年月日 平成14年1月31日


詳しくは四日市市のホームページをご覧下さい
http://www.city.yokkaichi.mie.jp/bunkazai/index.html



 巨樹・・・中山寺のモッコク

 南小松町中山寺の本堂裏西北方、書院廊下の西側に聳えるモッコクは幹周り372cm、樹高13m、全国最大級の木。

 月見山中山寺は、1461年(寛正2年)真宗高田派本山専修寺の第十世真慧上人が創建された旧跡寺院で、北小松の丘陵地一帯にあって山門、鐘楼以下多くの建物を擁し、東西65間、南北35間といわれていたが1464年(寛正5年)法難にあって炎上し、本山を一身田に移した。(跡地付近には「真慧上人御旧跡」の碑が建っている)
 その後南小松の現在地に再建されたもので、時期ははっきりしないものの山門にかかっている扁額から1500年以前と推定されている。このモッコクはその再建時に植えられたと伝えられていることから、樹齢450年以上と推定される。(中山寺編「中山寺の歴史」をもとに作成しました
 三重県林政課と(社)三重県緑化推進協会が発行した北勢地方の巨樹」・名木30本の内に選ばれている。
(写真添付予定)



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